0の切れ端
思っていること、考えていること、自分自身のこと。徒然なるままに。
手抜きは"悪"とは限らない
こんばんは、零です。
日付またいで、そろそろお風呂に入って寝ようかと思ったのですが、
ふと思いついてしまったので、もそもそと。
この間とか最近あった、中間発表にも関係していた、
「手を抜くことを覚えた」お話。
中学生の頃まで、優等生であることが自分のステータスでした。
真面目であること、何に対してもきちんとやること、
手を抜かないこと。
何事にも100%以上の力で取り組むことが、自分の中の常になっていました。
それがあたりまえで、そうすべきである、そう信じていました。
ところが、まあ、高校の時にああいうことになって。
理由は確定はしていませんが、おそらく頑張りすぎ。
つまり、儂の信じていたことは、儂自身を苦しめていたと言うこと。
なんてこったいって話ですよ。
それならば、できるだけ手を抜こう。
そう思って、色んなことに手を抜いて、頑張りすぎないようにやって。
本当にこれで大丈夫なのかと心配になるほど手を抜いて大学生活を過ごして。
挙げ句に、またああなる。
なんてこったいって話ですよ。
まだ手抜きが足りないらしい。
でも本当にこれ以上抜いていいの?
流石に力抜きすぎじゃないの?
不真面目とかそう言う問題じゃなくなっちゃわないか?
手を抜くことに対しての不安は底をつきません。
それでも、現実、頑張りすぎてつぶれてしまったわけで。
もっともっと不真面目になるしかない。
そしてやってみる。
前の自分にとって6割にも満たない力でやってみる。
完成度も4割以上減。はっきりいって自分では許せないレベル。
それでとりあえず様子を見てみる。
けなされる未来しか見えません。
現実。
全然問題なし。
信じられませんでしたよ。意味がわからなかった。
こんなんでいいの?本当に大丈夫?って感じ。
自分がこういう状況だという話を考慮したって。したって、ねえ。
まさか、そんな馬鹿な、ありえないだろ、そんな感想しか出てきませんでした。
つまるところ。
自分が思う100%なんて、そうそう出す必要がないということ。
普通に過ごす分には、6割ないし5割の力で十分すぎるということ。
自分が思うほど、いい意味で他人は自分に期待していないということ。
勿論、全てにおいて手を抜いていいわけではないと思うし、
ここぞ、という事物はあって、そこには全力を注がなくてはいけないだろうし。
それでもそんなことって人生そうそう無いんだなって。
少なくとも儂にとっては、超絶レアな事案なんだと気づきました。
もっともっと不真面目になっていい。
もっともっと気楽に生きていい。
そりゃああれだけ全力注いでいればへこたれもしますよ。
おつかれさま、過去の自分。
もうそんなに頑張らなくていいんだよ。
それに気づかせてくれてありがとう。
もうゆっくりおやすみ。
そうやって、今まで頑張ってきた自分を褒めて、いたわってあげていいと思います。
本当に自分をいたわって優しくしてあげられるのは自分しかいないのだから。
大事に、大事にしてあげて。
もっと、ゆっくり、気張らずに、のんびりいこうよ。
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