0の切れ端
思っていること、考えていること、自分自身のこと。徒然なるままに。
「死にたい」は「生きたい」
相変わらず波が激しいです。
それを上手く乗りこなせればいいのですが、
やっぱりまだ上手くいきませんね。
今回は今までよりちょっと暗めかもしれないです。
一応ご注意ください。
人生で初めて「死にたい」と思ったのは小学生の時でした。
理由は覚えていませんが、多分友達関係だったと記憶しています。
その時はすぐにその気持ちも消えていったので、
苦しみも一時的でした。
その後、本当に辛いことがあるとちょくちょく考えてしまいましたが、
その度に長く続くことはなくて。
きっと人生楽しかったんだと思います。
なんだかんだ言いながらも。
で、今年の4月。
前に記事で書きましたが、「死にたい」としか考えられなくなりました。
すぐに病院に行って、鬱と診断されて、薬を飲むようになって。
最悪の時よりは落ち着いて生活が出来るようになりましたが、
あの日からずっと、一日も欠けることなく、
毎日、「死にたい」という言葉を呟いています。
それは日に1回だったり、もっと多かったりですが。
自殺を考える日もありました。
色々調べて、同じように考える人が沢山いることを知って、
それでも、「死ぬ勇気」が沸いてきませんでした。
手首にナイフを当てたり、紐を首に巻いたり、
あと少しで逝けるのに、その少しの勇気が出ない。
そのまま、今まで生き延びてしまいました。
昨日、ネットで「死ぬ勇気がない」人たちの掲示板を見ていて、
ふと気づいたことがありまして。
「自分は”死にたい”のではなくて、”生きる希望がない”のではないか」
どちらも似た意味ではあるけれど、根底が全く違う。
”死にたい”は死ぬことを希望している、ということ。
本当に心の底から死ぬことを渇望しているなら、
「死ぬ勇気がない」なんて言い訳をする間もなく死んでいると思います。
一方で、”生きる希望がない”は生きることを希望している、ということ。
深層心理で生きることを望んでいる。だから死ねない。
実際、毎日が楽しかった高校時代(1,2年次)は、
死にたいなんて考えたこともありませんでした。
結局、そういうこと。
多分、儂は、まだ生きていたいのだろうと。
でも今、この世の中を生き延びるのに必要な、
希望も、夢も、勇気も、何もないという現実。
それが辛くて辛くてしょうがないのだと。
夢中になれる何かが欲しい
手放しの信頼を置ける人に出会いたい
好きなことをして生きていたい
面倒なことは出来るだけ考えたくない
自分の生きたい世界で生きたい
夢物語なのかも知れない。
現実はそんなに優しくないのかも知れない。
実際、今、現実は儂にとって苦痛を与えるものでしかない。
それでも、その中に一握りでも、
儂を生かすものがあると信じたい。
それに、早く出会いたい。
「死ぬ勇気」を探すのと、
「生きる希望」を探すのは、
どっちが楽なんでしょうね。
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